富来城
富来城(とみく・★★ 大分県国東市国東町富来浦)は、弘長元年(1261)築城される。富来氏は大友氏に対し終始一貫して忠節を尽くしたが大友氏没落により流浪。その後、垣見氏の居城となるも、間もなく慶長五年(1600)、黒田如水により攻撃され激戦の末、開城するまで三百四拾年城地として続いた(『城址説明板』)。 城主・垣見和泉守家純は美濃大垣で石田三成の軍に参加して留守であったが、城代の垣見理右衛門以下結束が固く、十日間の猛攻の前にも落城しなかった。ところが家純が討死したという急報が届いて、籠城軍はもはやこれまでと全員討死の覚悟を決めたが、黒田孝高は「何の恨みもない。もし黒田に仕える希望があれば召し抱えよう、なければ帰農するがよい」と寛大な扱いをしたので、ついに開城することになった。孝高は家臣上原新左衛門を城番とし、富来城の将士の多くはこれに従った。城代・垣見理右衛門は筑前青柳村に帰農し、家純の菩提を弔ったということである(『日本城郭大系』)。 今はこの城山に外廊物見が往時を偲ばせるのみであるが、空堀・鉄砲町・溝口・本丸・三の丸・城屋敷・隅櫓などの古名が残る(『城址説明板』)。 本丸の一部である外廊物見と空堀跡が僅かに残る。 |
(城址案内図)
(【左写真】土塁・空堀跡(かつては水堀で本丸を囲っていた)【右写真】城山と呼ばれる外廊物見跡)
(2011年4月1日訪問)