坂戸城

坂戸城(★★★ 南魚沼市六日町坂戸)のはじまりは定かではないが、南北朝時代(十四世紀)、越後守護上杉氏の家臣長尾氏の一族がこの上田荘に入り、領国支配を始めたと伝えられている。

以後、上田長尾氏は守護代長尾氏と並んで越後の国に重きをなし、坂戸城は越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。
上杉謙信の父守護代長尾為景と守護上杉氏が争った永正の争乱期(十六世紀初頭)、長尾房長によって山頂部から山麓部にかけ本格的な山城が造られた。その後も上田長尾氏は守護代長尾氏と協調しつつも独自性を保っていたが、天文二十年(
1551)、房長の子政景(謙信の義兄)は謙信と盟約を結び、臣従するに至った。謙信の養子となって春日山にいた政景の子景勝は、謙信の死後、御館の乱で景虎(北条氏からの養子)を破って越後国主となり、坂戸城は有力な支城としてその役割を果たした。御館の乱の際、坂戸城は景勝によって大改修が行われている。

慶長三年(1598)、豊臣秀吉による景勝の会津への国替えに伴い、堀直竒が入城したが、慶長十五年(1610)、信濃国飯山に移り、坂戸城は廃城となった。

山頂部一帯の郭を実城(みじょう)と呼び、山頂から派生する尾根には主水郭(もんどぐるわ)・大城・小城・寺が鼻郭、実城から北へ下った桃之木平には広大な郭がある。山麓には石垣をもつ居館跡の御館(おたて)・家臣屋敷跡、御館の南方、薬師尾根の北川中腹には御居間屋敷(おんまやしき)と呼ばれる屋敷跡がある。家臣屋敷跡と魚野川の間には内堀跡があり、埋田と呼ばれている。御館などの石垣は堀氏時代に築かれたといわれている(『現地案内板』)。

城跡は標高634m坂戸山に築かれ、山麓に居館跡が残る。遺構は良く残っていて見所も多いが、嘔吐を伴う程の厳しい山登りをしなければならない。本格的な登山なので、それなりの準備をして臨んでいただきたい。付近に長尾政景の墓所(道宗塚)がある。

 

 

 

(【左写真】実城に僅かに残る石垣。【右写真】実城付近に残る堀切。)

 

(【左写真】実城櫓台跡にある富士権現。【右写真】薬師尾根から実城を眺め。)

 

(【左写真】実城からの城下を見下ろす。【右写真】廣瀬曲輪跡(実城を一段下った場所にある)

 

(【左写真】実城から廣瀬曲輪(手前)と主水郭(左奥)を眺める。【右写真】桃之木平跡(有事の際の城主上屋敷であった。)

(実城から小城・大城を眺める。)

 

(【左写真】寺が鼻郭。【右写真】城坂(旧大手道・かなり険しい登城道が続く…)

 

(【左写真】城址碑。【右写真】家臣屋敷跡。)

 

(【左写真】御館跡石垣①【右写真】御館跡石垣②)

 

(【左写真】山麓の内堀跡。【右写真】長尾政景墓所(道宗塚)

(城址遠景)

 

  (2009年4月9日訪問)

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