岩櫃城

岩櫃城(★★ 群馬県吾妻郡東吾妻町原町平沢)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。

城郭の規模は1.4k㎡と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしましました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正二年(
1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信網が収まりましたが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。
天正十八年(
1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田城の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました(『現地案内板』)。

城跡は天険の要害・岩櫃山の中腹にあります。遺構も明瞭に残り、登城自体もそれほど厳しくないので、真田氏の活躍に思いを馳せながら攻城した。

 

 

 

(【左写真】本丸(居館)跡碑。【右写真】本丸を囲む土塁。)

 

(【左写真】本丸竪堀跡。【右写真】本丸北枡形虎口。)

 

(【左写真】本丸からの眺望。【右写真】腰曲輪(二の丸から本丸(左奥)に上がる通路で南面を守る)

 

(【左写真】二の丸(右)と本丸(左)の空堀。【右写真】二の丸跡(奥の北側が少し高い)

 

(【左写真】中城跡。三の丸にあたる。【右写真】中城脇の空堀。)

 

(【左写真】天狗丸跡の岩櫃神社(城の口の東側の台地にある)【右写真】城の口(登城口)

 

(【左写真】岩櫃山の岩壁【右写真】岩櫃城(中央)遠景(右奥が岩櫃山で城跡は中腹にあたる)

 

  (2009年3月24日訪問)

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system