吉田郡山城

吉田郡山城(★★★★ 安芸高田市吉田町吉田)は、南北朝時代の建武三年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約二六〇余年間の居城であった。

郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高三九〇m、比高一九〇m、範囲は約一km四方に広がる。遺構は山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約二七〇の曲輪が配され、所々に石塁の跡が見られる。

天文九年(1540)九月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は少勢ながらよく戦い、翌年一月尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。天正十九年(1591)輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。郡山城は中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である(『城址案内板』)。

城跡は広大で遺構も良好に残る。270余りある曲輪群など全てを見学するのは一日を要するのでは。登城口は「少年自然の家」「清神社」からの2つがある。

 

 

(【左写真】本丸跡(一辺約35mの方形の曲輪で、北端に櫓台を配する)【右写真】本丸から櫓台跡を眺める。)

 

(【左写真】二の丸(周囲を高さ1m程の石塁・石垣で区画していた)【右写真】勢溜の壇跡(本丸守護の兵が滞在)

 

(【左写真】三の丸跡(城内で最大の曲輪で、さらに四段に分かれている)【右写真】三の丸石垣(三の丸南東と御蔵屋敷に続く帯郭の間)

 

(【左写真】御蔵屋敷跡(写真奥の三の丸に通じる。石垣が散乱。)【右写真】御蔵屋敷周辺の土塁跡。)

 

(【左写真】厩の壇跡(厩舎があったとされる)【右写真】百万一心の碑(毛利元就が郡山築城の際人柱の替わりに埋めたと伝えられている)

 

(【左写真】郡山中腹にある毛利元就墓所。【右写真】城址碑。)

 

(【左写真】酉谷地点(郡山山裾)石垣(平成二十年の発掘調査で検出)【右写真】内堀(薬研堀)跡(断面がV字で、約100m検出された)

 

  (2011年9月8日再訪問)

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毛利元就の本拠。毛利氏宗家はその嫡流を酒害などで次々に失い、老臣らの協議と擁立の末に、27歳で庶流の元就が家督と継ぎ、宗家歴代の郡山城を大改修した。

山頂を中心に放射状に曲輪が伸びて山全体が要塞になっている。その時元就は「毛利乃家わしのは次脇柱」とその責任と意気込みを発句している。弱国衆である元就の四周の状況は緊迫が間断なかったが、1540年に尼子氏に攻められた際は郡山城の最大の危機であった。兵士や領民約8000人が半年籠城したが、元就はしかし見事にこれに勝利しているほどの武将に育ち、郡山城はそれに耐えうる規模の山城になっていた。

元就は1571年食道癌でこの城内で死去している。「三矢の訓」は史実ではないが、小早川隆景と孫の輝元が看病していたという。 元就の継承者である輝元は山間の不便な立地である吉田郡山城を棄て、広島城に転城している。現在の吉田町に城下町の風情はあまり感じられないが、郡山一帯に築かれた城址はそれに登ってみれば、その壮大さをよく確認する事ができる。毛利各公の墓所に始まり、各壇址や本丸址など、鬱蒼とした木々の中に中国の雄の在りし日をしのぶ事ができる。

 

 

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城と古戦場 

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