広島城

広島城(★★ 広島県広島市中区基町)

毛利氏は南北朝時代から郡山城を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。

こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正十七年(1589)四月十五日鍬入式を行ないました。築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正十八年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。

慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二カ国の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和五年(1619)に芸備二カ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。

以後、明治の版籍奉還までのおおよそ二百五十年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めました。廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。そして昭和二十年(1945)八月六日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同三十三年(1958)に外観を復元して建造されました(『現地案内板』)。

本丸・二の丸を中心に旧状が良好に復元・整備されている。原爆により全てが倒壊してしまったが、復興の象徴として聳え立つ。

 

  

 (【左写真】復元天守閣(旧天守は東と南に小天守を連ねたものであった)【右写真】中御門跡(本丸から二の丸へ通じる)

 

(【左写真】二の丸内部(出撃拠点の馬出の機能をもち、本丸の正面を守る)【右写真】二の丸太鼓櫓・多聞櫓(原爆で倒壊後、資料を基に復元)

 

(【左写真】二の丸表御門・平櫓(共に復元)【右写真】城址東側の裏御門跡。)

  

以前の記事

毛利元就の孫、輝元が築城した平城。郡山城から本拠を移転し、聚楽第や大阪城の有り様を参考に、水陸両用の交通の要衝である広島に城及び城下町を形成した。

選地は天下人豊臣秀吉の指示により、また黒田如水が工事の監督と指導にあったという。1589年の鍬入れといわれ、元就の子穂田元清らの普請奉行である。『毛利家文書』には安国寺恵瓊らの起請文があり、それによれば秀吉自身が「地取似合たる」と述べて、実際に城下町などを視察し、広島城の縄張りが毛利氏に見合ったものであるとして安堵した。

関が原の合戦で西軍の所属した輝元は萩に移され、代わって福島正則が入城。しかし1619年に、洪水で冠水した三の丸を幕府に無断改修をしたとの理由で改易されている。現在は原爆で倒壊した天守閣が復元されていた。

 

  (2011年9月8日再訪問)

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