己斐城

己斐城(こい・平原城とも★★ 広島県広島市西区己斐中)の構築の歴史は鎌倉時代中期まで遡れる推定され、厳島合戦(弘治元年・1555)当時まで要衝として争奪の渦中に巻き込まれたが、以後は廃城となった。

その間、永正十二年(1515)武田元繁に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(『房顕覚書』)と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。当時の城主は己斐豊後守師道入道宗端であった。
「残る名に かえなば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(『陰徳太平記』)の辞世の歌を残し、有田の戦で討死したが、勇猛と義に厚い武将として有名であり、その死が惜しまれた。
その子・己斐豊後守直之は厳島合戦の時、要害山・宮尾城に立て籠もった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城二の丸御番を勤めた。

城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・南・東・西の四郭及び縦堀が、昔の姿を残している。山腹に残されていた出丸跡やノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しい事に、その姿を失ってしまった(『現地案内板』)。

己斐東小学校の裏の茶臼山が城跡です。小学校脇の石段から登城し、意外に厳しい登山を20分程経て山頂まで辿り着きます。

 

  

 (【左写真】本丸城址碑【右写真】本丸跡)

 

 (【左写真】石積跡【右写真】竪堀跡)

 

 (【左写真】東郭跡【右写真】城址からの眺望)

 

  (2011年9月9日訪問)

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城と古戦場 

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