草津城

草津城跡(★ 広島県広島市西区田方)は山陽本線と宮島線電車の開通により三分された。戦国時代には西は海老山、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。

草津城がいつごろできたかはっきりしないが、康生二年(1456)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城としての形が整ったといわれている。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したといわれている。
児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また、毛利水軍の将であったともいわれている。就方は厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。その後織田信長が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺に届けたことで知られている。就方は天正十四年(
1586)七四歳で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった(『現地案内板』)。

城跡は住宅地の丘にある。鉄道と道路で城跡が見事に分断されています。遺構はほとんど見られないようだ。

 

  

 (【左写真】本丸にある城址碑【右写真】本丸からの眺望)

 (城址遠景)

 

  (2011年9月9日訪問)

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城と古戦場 

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