日知屋城

日知屋城(★★ 宮崎県日向市大字日知屋字伊勢道)は、日向市の東方海岸にある。

櫛の山の東南の丘地が日向灘に突出している岩丘に城取りしたもので、北・東・南の三方は海を巡らし、西方だけが山に続いているので、ここに岩盤を切り割って空堀をつくっており、城は頂上を本丸とし、その下に二の丸・三の丸の郭跡がある。また東麓に船を繋ぎ得る海蝕洞がある。
伊東氏四十八城の一つである。文明六年(
1484)都於郡の城主・伊東祐堯の長男祐国が、弟の祐邑と共に各八千の兵を率いて島津氏の飫肥城を攻めたが、祐国は飫肥城の大手門で戦死した。祐邑は兵を収めてこの城に帰り、宗家のために豊後の大友氏と連携をはかったが、宗家は、城主尹祐の幼少を幸いに、祐邑が宗家の守護となるための策動と疑い、刺客を放って祐邑を殺した。祐邑はこの日朝早く起きて城庭に出て、
    露はおき萩はまだぬる朝(あした)かな
と口ずさんだ時、萩の茂みから躍り出た刺客に殺された。後年、伊東氏敗亡の原因となったのである。
祐邑の死後は福本新十郎・氏本駿河守らが城主となり、天正六年(
1578)に島津氏の領地になってからのちの城主は井尻伊賀守であった。豊臣秀吉が九州を統一してからは延岡藩領となり、元和元年(1615)に廃せられた(『日本城郭大系』)。

伊勢ヶ浜公園となっていて、遺構も随所に残る。整備状態も良好である。

 

 

 (【左写真】主郭跡(多数の造物が発掘された)【右写真】城址碑)

 

 (【左写真】石垣が随所に残る。【右写真】東の曲輪(城内で2番目に広い曲輪)

 

 (【左写真】虎口(土塁で固め、櫓等が建っていた)【右写真】城址からの眺望(岬に築城され、自然の尾根に守られた城である)

 

  (2011年10月4日訪問)

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城と古戦場 

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