伝 真田幸村討死の地

真田幸村討死の地(大阪府大阪市天王寺区)は、一説に、現在の天王寺駅北西、安居神社とされている。

元和元年(1615)五月七日朝、真田幸村(信繁)は茶臼山に布陣した。茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には真田大助が控えていたという(『大坂御陣山口休庵咄』)。毛利勝永、大野治長、明石全登らとともに敵を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、混乱させたところで背後から明石隊が挟撃するという幸村の作戦だったという。しかし、明石隊が配置につく前に城方の兵が勝手に鉄砲を撃ってしまい、期待していた秀頼の出陣もなく、真田隊は劣勢に陥った(桑田忠親『日本部将列伝』)。幸村は死期を察し、嫡男・大助を秀頼の最後を見届けさせるために城に戻し、正面の松平忠直隊に突撃した(『真武内伝』)。幸村を先頭に、それぞれ念仏を唱えながら、死に物狂いで突撃して行った(『北川覚書』)。真偽は不明だが、「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」と叫んで家康本陣に駆け入ったともいう(『武徳編年集成』)。

その歿地は、当時の一級史料には出てこない。『元和先鋒録』には「天王寺表に討死」と記載されているが、ほかに『慶長見聞書』『大坂御陣覚書』が、安居神社(安居天満宮)で討ち取られたとも記している。確かに周囲より小高い丘になっており、一種の要害と言うことができよう。境内に戦死跡之碑、名水と名を馳せた安居の清水(かんしずめの井)跡がある。

ただ、ここが幸村の歿地かは確証が得られないし、乱戦の中、その遺骸すら確保できなかったと思われる。
江戸時代中期に成立した『武功雑記』は、幸村の首を獲ったのは西尾宗次(越前松平家)といい、徳川家康に当時の状況を質問されたが答えられず面目を失ったと記されている。ほかにも逸話が散見されるが、もとより、どこまで信用できるのかは疑問である。

 

 

 (【左写真】安居神社。周囲より小高い丘になっている。要害性は高い。【右写真】神社本殿。)

 

 (【左写真】真田幸村戦死跡之碑【右写真】説明板。)

 

 (【左写真】真田幸村戦死石碑【右写真】「天神坂」。この道がいわゆる表参道だったらしい。)

 

  (2012年2月11日訪問)

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城と古戦場 

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