延岡城

延岡城(★★★ 宮崎県延岡市本小路)は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長六~八(160103)年にかけて築かれました。

元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県(あがた)城と呼ばれ、二つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、二の丸、三の丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の二郭で構成され、門・櫓などが整備されました。中でも二ノ丸にそびえる高さ22m・総延長約70mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。慶長十八年(1613)、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が五万三千石で入封しました。康純の時、承応元年~明暦元年(16521655)には城の大改修が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館蔵)が奉納されました。しかし、永純の時の天和二年(1682・天和三年説もあり)、火災のため三階櫓などは焼失し、以後三階櫓は再建されませんでした。

元禄四年(1691)、永純は無城地の越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)に転封となり、さらに越前国丸岡(福井県坂井市)に移封されました。その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県壬生町)から二万三千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。明敬は正徳二年(1712)、三河国刈谷(愛知県刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国吉田(愛知県豊橋市)から八万石で入封。延享四年(1747)には、陸奥国磐城平(福島県いわき市)から内藤政樹が七万石で入封し、明治四年(1871)の廃藩置県まで八代続きました(『城址案内板』)。

城山公園となっており、遺構が良好に残る。再訪になるが、石垣の素晴らしさは変わらなかった。

 

 

 

 (【左写真】天守台跡地(「元禄絵図」には太鼓櫓があり、一説には五階天守閣があったとも)【右写真】天守台からの眺望)

 

 (【左写真】天守台虎口跡(発掘調査の結果、階段・石垣・門礎石等が発見された)【右写真】本丸跡)

 

 (【左写真】二階門櫓跡(本丸への入口)【右写真】二の丸(祭りの準備が行なわれいた)

 

 (【左写真】千人殺し①(石垣の一部を外すと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言われている)【右写真】千人殺しの石垣②)

 

 (【左写真】三の丸跡地【右写真】内堀跡(現在は駐車場となっている)

(復元された北大手門)

 (2011年10月4日再度訪問)

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(高さ20メートルの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、一番下の積み石を外すと石垣が総崩れになって敵1000人を一瞬にして殺せるといわれる。)

 

  (2011年10月4日訪問)

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