日向 松尾城

松尾城(★★ 宮崎県延岡市松山町字松山)は南は五ケ瀬川に臨み、北には高平山(405m)を負う自然の丘地を城取りしたもので、東方には松山町に本東寺・松山神社などの丘地があり、西には五ケ瀬川の支流の小川が北から南に流れており、巡らすに湿田をもってする要害で、土持宣綱が文安元年(1443)から築城にかかり三年にして成り、西階城からここに移った。
土持氏はこの頃都於郡城の伊東氏と不和となり、西階城に拠って伊東・三田井の両氏に備えたが、三田井氏とは和議が調ったので、南側に川に臨むこの地を選んで城を築き、もっぱら伊東氏に備えた。そして、この城ができあがると、康正二年(
1456)には親戚の財部(高鍋)の土持景綱と共に伊東祐堯と戦い、一旦は和議が成立したが、長禄元年(1457)再び戦って小浪川(高鍋町)で敗れ、財部土持氏は滅んで、宣綱は敗退したのである。のちに、この城には全繁・常綱・親栄・親佐・親成の五代に及び居城し、この間、都於郡の伊東氏は鹿児島の城主島津氏に追われて豊後の大友宗麟を頼った。大友氏は天正六年(1578)正月大軍をもってこの城を囲んだ。城主親成以下防ぎ戦ったがついに城は落ち、親成は自殺した。しかし、この年の冬、大友宗麟は高城(木城町)の戦いで島津氏に敗れて日向国一円は島津氏の有に帰し、この城には親成の子親信が入って県を治めたが、天正十五年に豊臣秀吉が九州を統一して、この地方を高橋元種に与えたので元種が城主となり、慶長八年(1603)に延岡城を築いて移るまでここに在城した。

城は東の丸と中の丸、西の丸の三区に分かれており、国道218号の小峰橋の東側袂付近から登り道がある(『日本城郭大系』)。

五ヶ瀬川北岸の丘陵が城跡である。曲輪群の一角に土持氏記念碑が建つが、私有地の畑になっている箇所が多く、藪化も激しいので遺構は明瞭ではない。本東寺脇に登城道があるが、寺の麓に車を停めて歩いて登城する方が無難。

 

 

 (【左写真】曲輪跡(土持氏の記念碑があるが、藪化が激しい)【右写真】堀切跡)

 

 (【左写真】曲輪跡?(城址の多くが畑地となっており、どこまでが遺構かわからない…)【右写真】登城道から城址遠景)

 

  (2011年10月4日訪問)

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城と古戦場 

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