務志賀軍営

務志賀軍営(むしか・★宮崎県延岡市無鹿町2丁目)は天正六年八月十二日、豊後国主大友宗麟が薩摩の島津氏を討ち都於郡の城主であった伊東義祐を日向に帰すため、大軍を率いて来て軍営を置いた所である。

『日本西教史』には、大友宗麟は臼杵で小船隊を組織して親戚や宣教師らを伴って海路ここに来たとある。同年の十月から戦いが始まり、十一月十二日大友、島津の両軍は高鍋の小丸川を挟んで決戦となったが、宗麟は戦線からの要請にもかかわらず、ここを動かなかったので豊後軍は大敗を喫し、宗麟も驚き慌て豊後に逃げ帰った。
『上井覚兼日記』によると、天正十三年八月二十五日に「川船にてむしかあたり大友宗麟の旧跡共、中書公(島津家久)御覧候、吾々も御供申候て見申候也」とあって、島津家久や上井覚兼らがここを見物したことが知られる。

務志賀軍営の跡は、延岡市無鹿町の御大師山と呼ばれる平凡な丘で、現在は住宅などが建っているが、大友宗麟はここを非常に重視したようである。そしてここにキリスト教徒のみが住む新市街を作るという、きわめて宗教的に重大な意図をもって来たのであったが、高城の決戦が敗れたので雄図空しく豊後に敗走することとなったことは、誠に残念な出来事であった(『日本城郭大系』)。

陣跡は妻耶神社となっている。背後に北川が流れ、周辺は穏やかな住宅地になっている。

 

 

 (【左写真】現在は妻那神社となっている。【右写真】背後に大瀬川が流れ、長閑な情景である。)

 

  (2011年10月4日訪問)

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城と古戦場 

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