高鍋城
高鍋城(★★★ 宮崎県児湯郡高鍋町上江)は、もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。 平安時代中期(斉衝年間-八五四年-八五七年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ六〇〇年に及んだ。長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その四十八城の一つとして、武将落合民部これを守った。 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け、一段下った平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北・南・東を堀で区切り、西は背後の山に野首堀切りを設けた(『城址案内板』)。 舞鶴公園となり、石垣・曲輪跡等が残る。再訪になるが、今回は詰の丸等の遺構も見学。 |
(【左写真】長峰門跡(本丸正門で、二階建て櫓門があった)【右写真】本丸政庁(延宝四(1676)年に完成)
(【左写真】物見台からの眺望。【右写真】詰の丸跡(土塁も僅かに残る)
(【左写真】岩坂門跡(二の丸への入口で、石垣と石段が残る)【右写真】二の丸跡。)
(三階櫓跡下の石垣。)
以前の記事 この地は古くからは財部(たからべ)といわれ、平安時代以降に土持氏が財部城を構え勢力を誇っていた。その後伊東氏から島津氏の所有となり、天正6(1578)年の耳川の戦いの際には島津義弘がこの城に陣した。 豊臣秀吉の九州平定の後に筑前から秋月氏が三万石で入封して城を修築。寛文年間に「高鍋」に改め、以後高鍋藩主秋月氏のまま明治を迎える。 城跡一帯は舞鶴公園として整備されており、本丸・二の丸・三の丸や石垣・堀の一部が残っている。 |
(舞鶴公園)
(2011年10月4日再訪問)