佐土原城

佐土原城(さどわら・★★宮崎県宮崎市佐土原町上田島字追手)は伊東氏の一族田島氏が創築した城である。

『旧事集書』によれば、この城は田島左近太夫休助が築城したもので、伊東義門の臣・角隈石宗が縄張りしたと伝えられている。休助死後に都於郡城の伊東氏が城を乗っ取り伊東義門の隠居城とした。天文五年(1536)、伊東義祐が伊東家の領主となった時、都於郡城が兵火にかかっていたので、義祐はこの城に入ったが、翌年に火災で城中が焼失したため宮崎城に入った。
その後、天文十一年か十二年頃に佐土原城に帰った。義祐は日向の大半を制圧して勢威を近国に知られ、大いに城郭を修復し、規模を拡大した。郭外には市や買店が軒を連ねて非常な盛況を呈したという。
義祐は京都の金閣寺を模して金柏寺を建て、巨鐘を寄進した。天正五年(
1577)、義祐が島津氏に敗れて、城を棄て一族を率いて豊後に逃げ帰ってからは、この城には島津義久の弟・島津中書家久が城主となった。ついで天正十五年に豊臣秀吉が島津氏を降した際にも、この城は家久が受領したが、家久の死後に子の豊久が城主となった。豊久は慶長五年(1600)の関ヶ原の役に出陣して、退陣中に伯父の島津義弘の危急を救うため追撃の敵を阻んで戦死した。徳川家康は豊久の佐土原城を没収して幕府領としたが、慶長八年に島津右馬頭以久を佐土原城主とした。これ以後、この城は佐土原三万石の本城となり、寛永十四年(1637)に山上の城塁を廃毀して山下に移り住した。明治三年(1870)に広瀬に移るとこの城を廃毀した(『日本城郭大系』)。

伊東義祐が栄華を誇った城ですが、ここも夢の跡です。金箔瓦が出土したくらい豪華だったらしいです。鶴松館(復元御殿)の正面左脇に登城道がある。空堀・土塁・天守台等の遺構が残る。

 

 

 

 (【左写真】天守台跡(発掘調査で古絵図の位置に天守台跡を確認)【右写真】本丸跡(広い曲輪を掘り下げた道などで分割している)

 

 (【左写真】本丸枡形虎口跡。【右写真】堀切(深さは5m近くあった)

 (山麓に復元された御殿・鶴松館)

 

  (2011年10月5日訪問)

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