北方城

北方城(岐阜県本巣郡北方町北方)は、伊賀太郎左衛門光就が築城し居城とした。

光就の曾孫・安東伊賀守守就は斉藤氏の滅亡後、織田信長に仕え、元亀元年(1570)六月の姉川の合戦、翌年の長嶋一向一揆討伐に参戦し大功をたてた。
天正八年(
1580)嫡子河渡城主・尚就が甲斐武田氏と内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)に蟄居した。信長は守就の故領を収めて稲葉一鉄に預けた。
天正十年(
1582)、織田信長が京都本能寺で明智光秀に害せられると、守就は一族旧臣を集めて北方城に拠ったが、稲葉一鉄・貞通父子に攻められて落城した【これを北方合戦という】(『城址案内板』)。

地籍図中の大井神社東側を西北の隅として、水路で囲まれた東西約160m、南北約340mの部分が北方城跡と推定される。
北方城はいくつもの屋敷地を含みながら堀で周囲を囲まれていたと考えられる。城跡の内部は、更にいくつもの水路によって区分されており、防御性を高める役割を果たしていたと推定される。
現在の史跡は本丸跡の一部であると考えられている(『城址案内板』)。

城址碑が住宅地の中にあり、水路と思われる遺構以外は何もない。


(跡地の航空写真)

(かなりアバウトな現地城跡推定図)

 

(【左写真】城跡碑。【右写真】城址西側を流れる水路跡。)

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