蒼海城

蒼海城(おうみ・★群馬県前橋市元総社町)は、染谷川とその支流牛池沢との間に縦横の堀を配した城で、総社長尾氏の本拠である。

この城の縦横列郭構造は、築城以前に既設の構えのあったことを暗示し、幻の上野国府を戦国城郭に編成したのがこの城ではあるまいか。上野国分寺・国分尼寺跡・山王廃王寺跡・上野国総社などが付近に集中するこのあたりに国府があり、上野守護代であった長尾氏が国府跡を本拠とすることに無理があろうか。
平将門が上野国府を襲った時の染谷川古戦場もここにある。しかし、旧地形に拘束された不合理な城は、景行の子忠房さえ放棄して石倉に築城し、諏訪氏も入城せず、秋元氏も植野に新城を築いたのである。石倉城(古)が利根川に崩落したのち総社長尾氏はまた蒼海城に住み、関東管領上杉顕定は、総社の長尾忠景に兄景信の山内上杉家宰職を継がせた。それが文明八年(
1476)、長尾景春(景信の子)の叛逆を招いたのである。文明十八年十月、尭恵がここに忠景の子顕忠を訪ねている。忠景の孫顕方も上野守護代であったが、当時勃興してきた北条氏綱に通じた。大永四年(1524)頃のことであろう。そのためか、顕方の跡を継いだ顕景は、箕輪城主長野信業と厩橋城主長野方業(信業の弟)に挟撃されて苦しみ、越後の長尾為景に救いを求めたが、ついには長野氏に屈服したらしく、長野業政のはからいで総社の景房(憲景)が白井の城主を継いでいる。以後、総社長尾はまったく衰え、永禄九年(1566)、蒼海城も武田信玄に攻略される。本丸は北に寄り、川には堰止めを設けた。氾濫は本丸西側に及んで沼状となり、蒼海の名を生んだ(『日本城郭大系』)。

本丸付近が宮鍋神社とされるが、遺構はほぼない。御霊神社に僅かな土塁跡が残っています。ここも本丸付近は宅地化しておりました。城址東南にある総社神社になぜか詳細な案内板がありました。

 

 

 (【左写真】城址中心部とされる宮鍋神社。【右写真】御霊神社に残る土塁。)

 

  (2011年12月16日訪問)

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system