江田館

江田館跡(★★ 群馬県太田市新田上江田町字堀ノ内)は、反町館跡とともに新田町の中世平城の代表的な遺構。

俗に「堀之内」と呼ばれる本丸跡は、東と西の両面に「折」を持ち、東西約80m、南北約100mの土塁と堀を巡らしています。虎口(出入口)は南面中央部と東面にあり、土橋となっています。外郭には、本丸の西と南を「カギ」型にかこんで、「二の丸」があります。本丸から北東に向かって、黒沢、毛呂、柿沼の各屋敷跡があり、それぞれ土塁と堀が残存しています
。この館は、江田行義の館と伝えられています。行義は、新田義重の子、義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後この地で九代にわたり足利氏の目をしのび、姓を「守下」に改めていましたが、十代目大膳という人が文禄年間(一五九三年頃)祖先のこの地に移転してきたと言われています。
戦国時代には、反町館跡とともに金山の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛門の居城となりました。天正年間には、小田原北条勢が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。その後、北条氏滅亡とともに廃城となりました(『現地案内板』)。

館跡は案内板などがあり、よく整備されている。

 

 

 

  (【左写真】本丸に向う土橋と城址碑。【右写真】本丸土塁(中央部が奥に折れている)

  (空堀跡)

 

  (2011年12月16日訪問)

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城と古戦場 

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