新田館

新田館(★ 群馬県太田市世良田町)

当寺域は早川の東、高台の地を占める現在は一ha余に過ぎないが、往時はこれに数倍する地積を擁していた。
南と北に東西に走る濠の痕跡を残し、昭和初頭までは土塁の残存を見ることができた。西に早川をひかえ、周りに濠を巡らした豪族の館跡であることは明瞭である。

鎌倉時代の世良田は,新田の庄の経済的・文化的中心であったところからみて新田宗家の館はここにあったと考えられる。元弘三年(1333)北条高時は世良田に有徳の者多しとして莫大な軍資金を課し、使者を派遣して無法な「譴責」を加えた。義貞は「わが館の辺を雑人の馬蹄にかけさせることこそ無念なり」と怒り、これを捕らえて一人は世良田の里に梟首した(『太平記』)。
この「わが館」がここであろう。建久四年(
1193)源頼朝が那須野・三原の狩の帰途遊覧した(『吾妻鏡』)新田館もここであると思われる(『現地案内板』)。

館跡は総持寺となり遺構はない。しかし、新田義貞が倒幕の決意を固め鎌倉幕府の使者を切り捨て、幕府反逆の狼煙を挙げた歴史的・重要な史跡です。

 

 

  (館跡に建つ総持寺)

 

  (2011年12月16日訪問)

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城と古戦場 

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