黒野城

黒野城(岐阜県岐阜市黒野)は、加藤氏の居城で、面積17.523u、本丸築堤の高さ5.4m(『城址案内板』)。

その周囲の濠は水をたたえて昔の面影をよく残している西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周辺には惣門口・木戸・二之丸・井之上・徳田屋敷などの地名が残っている(『城址案内板』)。

加藤光泰は、はじめ斉藤龍興に仕えていたが、斉藤氏の滅亡後は織田・豊臣氏に仕え、甲斐国甲府城主として、二十四万石を領したが朝鮮の陣中で歿した。
その子・左衛門尉貞泰は幼く領地を減され、文禄三年(
1594)七月甲府城より黒野城に移って四万石を領した(『城址案内板』)

関ヶ原合戦では東軍に属し、慶長十五年(1610)まで十五年間、居城としていたが同年七月伯耆国米子六万石に移封となり、黒野藩は短期間で終わった。元和三年(1617)伊予国大洲城に移り、左近大夫と名を改め、同九年五月に歿した(『城址案内板』)。

城跡は本丸部分が城址公園として住宅地の中にある。近世の城跡であるが、土塁や堀が良好に残っている。


(跡地の航空写真)

 

(城跡石碑)

 

(【左写真】本丸跡(グランドとなっている)。【右写真】本丸を囲む土塁跡。)

 

(【左写真】土塁・堀跡 【右写真】堀跡 )

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