堀口館

堀口館(★群馬県太田市堀口町)

『上野国志』によれば「堀口村、大館宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の武功あり」とし、村内に貞氏の居館があったことを示している。貞氏については、それを家貞とし、大館宗氏の叔父とする別伝もあるが、いずれも貞満をその孫としている点では一致している。
ここには昭和四十三年まで正覚寺の不動堂と墓地があったが、度重なる水難と堤防拡巾工事のため、浄蔵寺に合併した。正覚寺は堀口貞満の創建と伝えられ、寺域には館跡の遺構が残されていた。
堀口郷は、新田義兼が鎌倉幕府から元久二年(
1205)に地頭職として所領を安堵された、新田庄内12ヶ郷の一つであり、のち建保三年(1215)義兼後家により、その孫岩松時兼に譲られた上堀口郷を除いては、代々新田宗家に伝えられ、貞氏(家貞)がここに居住して堀口氏の祖となった。堀口地内からは、文永十二年(1275)、建治二年(1276)、元弘三年(1333)、建武三年(1336)記銘の板碑が出土している。
堀口貞満は、『太平記』によれば常に新田義貞の側近の武将として、また軍を分ちては一方の大将として活躍した。特に比叡山上にあって、後醍醐帝による新田方の扱いについて、その人道に合わないことを詰り、帝をして翻意させ、義節に殉じた一族百三十二人、郎党士卒八十余人に代り新田軍の面目を施すと共に義貞を宮方にとどめた功績とその勇気は高く評価されねばならない(『現地案内板』)。

城址碑があるのみで、遺構は何もない。加茂神社の西方の駐車場の様な場所に城址碑と案内板がある。

 

  (館跡碑があるが、遺構は何もない)

 

  (2011年12月16日訪問)

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城と古戦場 

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