岩松館

岩松館(★群馬県太田市岩松町)

新田、足利氏の祖源義国は、この地岩松に居住し、現在の青蓮寺境内を中心としたこの区域がその跡であり、その子新田義重もここに居住し、南方に岩清水八幡宮を勧請したと伝えられる。
正木文書(群馬県史資料編)によれば建保三年(
1215)、鎌倉幕府は新田義重の嫡男義兼の譲状に基づき、その妻である義兼後家(新田尼)を岩松、下今居、田中郷の地頭職に任じ、その後貞応三年(1224)、新田尼はおの孫時兼にやしき岩松郷を譲渡し、二年後の嘉禄二年(1226)、鎌倉幕府は時兼を岩松郷の地頭職に任じたとある。
また、源義国の孫足利矢田判官義清が、平家追討に出陣するにあたり寿永二年(
1183)、山城国山背野中西寺に祖父義国等の供養のため奉納した大般若経の奥書に、上野国新田住式部大夫加賀介従五位下義国とある。
これらの資料から、少なくとも当岩松に義兼が居住し、その父義重も住んだであろうこと、さらには祖父義国も晩年には住んだのであろう館があった可能性が強い。その館は新田尼から孫の時兼に譲られた。時兼の父は足利義康の孫義純で、新田義兼嫡女と結婚し、岩松中邸に居住したと伝えられる。中邸は本邸の控えであり、そこで成長した時兼はその後本邸に移ったのであろう。
当公園内からは発掘調査によって、中世のものと考えられる柱穴の底部を石で突きかためた基礎をもつ堅固な堀立柱の建物跡が多数発見されており、有力者の居住跡の可能性が高い。時兼以後岩松氏が代々居館したものと思われる(『現地案内板』)。

現在は青蓮寺が建ち、遺構は何もない。

 

  (館跡に建つ青蓮寺。遺構は何もない)

 

  (2011年12月16日訪問)

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