長浜城
長浜城(★ 滋賀県長浜市公園町本丸) 長浜はもと今浜と言い、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が、室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したと言われている。 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓や三重の隅櫓は当城の遺構と言われている。また、当市内の大通寺台所門、知善院表門も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部に当たることから貴重な史跡として昭和三十七年に市の指定文化財として指定されている。 城跡は豊公園となり、遺構は明瞭ではない。周辺寺院に移築城門などが残る。 |
(復興模擬天守。内部は歴史博物館となっている。)
(【左写真】天守から琵琶湖を眺める。【右写真】湖内に沈む太閤井戸跡。)
(【左写真】内堀跡【右写真】知善院山門(内藤氏時代の搦手門と伝わる)
(【左写真】大通寺本堂(伏見城の殿舎を移築)【右写真】大通寺台所門(山内一豊時代の大手門と伝わる)
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1336年の京極氏築城。1573年に小谷城に浅井氏を殲滅した織田信長は、小谷城攻めに第一の功があった羽柴秀吉はこの地に本格的な城を建築した。長浜(当時は今浜)は北陸と畿内を結ぶ要衝であり、鉄砲生産で有名な国友村の管理、琵琶湖湖北の一向一揆の監視に都合のよい場所である。 1582年に本能寺の変で信長が斃死し、清洲会議において長浜城は柴田勝家に配分され、その甥・勝豊が入城した。その後、賤ヶ岳の合戦では前哨戦として秀吉が落城させ、以後の重要な拠点となった。復元の天守閣があり、また「太閤井戸」という虚実の史蹟もあり、一応の観光地と化している。 |
(2012年5月26日訪問)