徳川家康本陣跡
関ケ原の戦い

勝山、岡山本陣跡とも。

徳川家康本陣跡(岐阜県大垣市赤坂町勝山)は、海抜53mの独立丘陵。

慶長五年(1600)関ヶ原合戦のとき、東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられたところで、天下分け目の大合戦に勝利を得た徳川ゆかりの地を記念して岡山の名を“勝山”と改めたと伝えられている。
また、この山は聖徳太子の創建と伝える安楽寺領であり、壬申乱をはじめ大垣藩関係に由縁の史料に富んでいる(『現地案内板』)。

岐阜城を攻落して意気あがる東軍は、慶長五年八月二十四日、西進して赤坂一帯を占拠した。翌二十五日、軍艦の本多忠勝と井伊直政が相談し、徳川家康の本営に定めたのがこの岡山(現・勝山)。
以来、家康が到着するまでの約二十日間、東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて大垣城を本拠とする石田三成らの西軍と対峙した。ちなみに大垣城へはこの岡山から東南方向わずか4kmにすぎない(『現地案内板』)。

九月十四日正午頃、約三万の軍勢を率いた徳川家康がついに赤坂に到着、岡山頂上の営舎に入った。同時に、大垣城に向けて自らの馬印とのぼり旗を立てさせ、大垣城の西軍将兵を大いに動揺させたという。
将兵の動揺を抑えるため、西軍の島左近や蒲生郷舎、明石全登らは大垣城を出撃し、杭瀬川一帯で東軍の中村一栄・有馬豊氏の両隊と戦い、家康はこの戦いの一部始終をここで食事をとりながら観戦し、飯粒が膝の上に落ちるのも気がつかないほどであったという。
古記録では、扉を営舎の屋根の上にのせて観戦したようだが、ここではあえて展望台とし、「家康展望台」と名づけた(『現地案内板』)。

安楽寺墓地から頂上まで登ったが、付近は草木が生い茂り、残念ながら見通しが悪い…。


(跡地の航空写真)

(本陣跡。展望台が作られている。)

( 岡山本陣址碑 )

 

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