宝満山城

宝満山城(★ 福岡県太宰府市大字北谷)

古くから御笠山、竈門山と呼ばれ、信仰の山として崇められていた。平安時代には伝教大師最澄が中国へ渡る時、航海の安全を祈って以来、仏教が栄え、江戸時代には山伏たちが修行に励んだ。山中にはその名残りの坊跡や窟、またカマド岩や益影井など伝説に彩られた場所も多い。明治初めの神仏分離令により、現在は山頂に竈門神社上宮が、麓に下宮が鎮座するのみである。標高829.6m(『登山道案内板』)。

宝満城は現在までその所在が明らかにされていないが、筆者が調査し、古記録や現地の古老の話などを総合した結果、城は、宝満山と仏頂山(元宝満)の尾根にまたがる山上付近を城郭とし(僧房も含む)、仏頂山の山頂一帯約七反(約6930㎡)の緩やかな斜面を本城にしていたと推測される。周囲には空堀らしい跡もあった(『大宰府戦国史』)。

築城年代は不明であるが、高橋鑑種によって築城された。

鑑種は大友氏の一族・一万田氏の出自で、大友宗麟の命により断絶の憂き目にあった高橋家を継いだ。宗麟はかつて弟・大内義長を行政官として補佐し、秋月文種討伐でも戦功のあった鑑種を宝満山・岩屋城督に任命して筑前の支配体制を確立しようとした。
しかし、永禄十年(
1567)、鑑種は毛利氏と結び大友氏に叛き籠城。鎮圧後の同十三年、宗麟は一族の吉弘鎮理を宝満城督に任命し、高橋家を継がせ高橋鎮種(後の紹運)とした。
天正十四年(1586)、島津氏の北上に際し、高橋紹運は岩屋城に、次男統増は宝満山城に籠城。紹運の壮絶な討死で岩屋城は落城し、宝満山城も開城した。豊臣秀吉の援軍が上陸すると、紹運の嫡男で立花山城主・立花統虎が僅かな兵で岩屋・宝満山両城を奪回。

城跡は登山客で賑わう。顕著な遺構はないが、僧房跡など城郭遺構を思わせる箇所も散見される。城跡も宝満山山頂、仏頂山付近等諸説あるが、筑前の要衝であるこの山を巡って激戦が繰り広げられた事は間違いない。往復4~5時間の登山。山頂からは岩屋城立花山城古処山城等が見渡せあらためてこの山の重要性が認識される。

 

  

  (【左写真】険しい登山道(岩場が多いのでそれなりの装備で臨みたい)【右写真】山頂(829m・竈門神社上宮があり、登山客で賑う)

 

  (【左写真】山頂からの眺望(福岡方面を眺める)【右写真】山麓の竈門神社下宮(ここから左に行くと登山道)

 

  (【左写真】城址を連想させる座主跡の石垣【右写真】稚児落しの岩場(山頂付近はこのような奇岩で構成されている)

 

  (【左写真】中宮跡(山中には修験道が盛んだった時代の講堂跡が点在する)【右写真】仏頂山山頂(868m・ここも城跡説が残る)

 

(【左写真】宝満山から仏頂山(奥)を眺める(尾根沿いにある中間地点が城址跡との説も)【右写真】宝満山遠景)

 

  (2012年9月1日訪問)

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