丸山城

丸山城(☆ 鳥取県鳥取市丸山)

この山は、天正九年(1581)羽柴筑前守秀吉が鳥取城を攻めた久松戦の丸山城跡である。

ここの城主を奈佐日本助と呼び元但馬奈佐谷の領主であったが、但馬地方の秀吉戦に敗れてより、鳥取城主吉川式部少輔経家に仕え、この城を守りつつ、毛利軍から海を越えて送ってくる兵糧を船で袋川から雁金砦を経て、鳥取本城に運び城兵3000余人の命を保っていた。
一方秀吉軍は本陣を久松山の東太閤ヶ平に構え、難攻不落の鳥取城に日夜猛攻を続けた。鳥取本城は奈佐日本助の巧妙な兵糧輸送により頑強に抵抗を続けたが、才知抜群の秀吉は万策の後に遂に食糧攻めを決意し、宮部善祥坊をして唯一の補給路雁金砦を奪取せしめた。
このため連絡を断たれた本城は大混乱のうち遂に落城したのである。雁金の首将塩谷周防もこの山に退き、鳥取本城明け渡しの報に日本助と共にその責を負い、同年十月二十五日この地に無念の涙をのみ自刃した。武士道に徹し身命をかけて戦った両雄の忠勇義烈は真に崇高の極みである。慈に慰霊碑を建立し、永くその誉を讃え英魂に捧げる(『現地案内板』)

登城口が見つからず登城を断念。麓に案内板と慰霊碑がある。

 

 

 (【左写真】山麓の慰霊碑【右写真】城址遠景)

 

  (2012年9月23日訪問)

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城と古戦場 

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