若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城(★★★ 鳥取県八頭郡若桜町若桜)は播磨、但馬へ繋がる交通の要衝にある。そのため、戦国時代において毛利対尼子、毛利対織田などによる争奪戦が繰り広げられた。

築城時期は不明だが、延徳元年(1489)には「矢部館若狭」の記述があり、矢部氏によってこの頃には城が築かれていた可能性が考えられる。一時山中鹿之助による尼子氏再興戦の舞台ともなった。その後、羽柴秀吉による鳥取城攻めの際には織田方の拠点として機能し、天正九年(1581)に鳥取城が落城した後は秀吉の武将木下重堅、関ヶ原の戦後の慶長六年(1601)には山崎家盛が入城している。元和三年(1617)に池田光政が因伯2国を領する鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。

城郭の遺構は大きく二群に分けられる。山頂部から南北に延びる尾根の中腹から先端部にかけては堀切、竪堀が見られ、小規模な曲輪群が構築されている。また山頂部付近には、この付近で取れる石材を用いた石垣によって、虎口や天守台等が築かれている。その構造から前者は戦国時代の山城の遺構で、後者は近世初頭になって新たな築城技術で構築されたと考えられる。本丸の西側などかなりの石垣が崩れているが、これは廃城の際に意図的に壊されたものである。中世から近世にかけて城郭構造の変遷を窺うことのできる城として学術的な価値が高いだけでなく、そうした破城の状況を今に留めているものとして重要である(『城址案内板』)。

若桜小学校を目指し、そこから案内板に従って山腹まで車で登ることができる。遺構も良好に残り、素晴らしい石垣群を堪能できる。

 

 

 (【左写真】本丸跡【右写真】天守台石垣)

 

 (【左写真】廊下橋虎口(二の丸から本丸へ続く)【右写真】重厚な石垣群)

 

 (【左写真】大手門跡(三の丸城内から)【右写真】堀切跡)

城址からの眺望

 

  (2012年9月23日訪問)

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城と古戦場 

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