由良台場

由良台場(★★ 鳥取県東伯郡北栄町由良宿)

江戸時代末期、外国船が頻りに日本の近海に出没し沿岸を侵した。幕府は各藩に命じて一層海防を厳重にするよう通達した。鳥取藩主池田慶徳は海防上砲台場築造の必要を認め、その建設を砲術家武宮丹治に命じた。丹治は文久三年(1863)瀬戸村の武信佐五衛門の宅に来て相談、六尾反射炉を造った武信潤太郎の建議を基に由良川の河口に建設することにした。潤太郎はフランス式の築城法を基に自ら設計し、由良藩倉二十一ヶ部落の農民を集め指導監督して建設した。土塁の基礎は東隣の畑の砂を積み上げて造り、土はかじ山と清水山より、芝は干目野から運んだといわれる。由良お台場は六角形で、東西125m、南北83m、周囲約400m、面積約11913㎡である。大砲は七門配置され、この守備には農民があたり、郷土の護りを固めた。数年後明治維新となり、大砲は廃棄改鋳され、台場は大正十四年八月、由良町(現大栄町)に払い下げられ今日に至っている(『現地案内板』)。

台場跡は公園となっており、見事な土塁と砲台跡が残っている。

 

  

  (【左写真】台場内部(砲台跡がしっかりと残る)【右写真】広大な土塁が囲う。)

空撮写真(現地案内板より)

 

  (2012年9月25日訪問)

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城と古戦場 

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