尾高城

尾高城(★★ 鳥取県米子市尾高)は、中世の東西交通路を抑える西伯耆の軍事上の中心地であった。

鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配化時代には杉原盛重が城主であった。
江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。

城跡は、北から二の丸・本丸・中の丸・天神丸・後方の館跡など八つの郭があって堀や土塁で守られ、平常の生活を営む館と城が繋がっている中世の城郭遺跡である。尼子回復戦の折、尼子の勇将山中鹿介が捕らわれ、この城にいた時、腹痛と偽って汲み取り口から脱出したという物語は有名である(『城址案内板』)。

城跡は「米子勤労総合福祉センター」の敷地内にある。案内板があるが、藪化が激しく本丸・二の丸まで辿り着けなかった。遺構は十分にあるようだ。

 

 

 

  (【左写真】方形館跡(土塁等が残るが、藪化が激しい)。【右写真】中の丸内部から(土塁で囲まれているが、こちらも雑草で遺構が不明瞭)

 

  (【左写真】南大首郭(空堀は雑草で確認できず)【右写真】天神丸(左側)と郭の間の堀跡)

 

  (2012年9月25日訪問)

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城と古戦場 

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