高岡城

高岡城(★★三重県鈴鹿市高岡町)は標高五十米、南に鈴鹿川と北に深い谷がある自然の要害地に築かれた山城であった。西の空堀付近は馬場の跡と伝えられている。

城主は神戸友盛の家老智勇兼備の名将・山路弾正であった。永禄十年(1567)初秋、織田信長の大軍が高岡城を攻めてきたが、これを防いだ。
翌年二月、再度攻めてきたが、山路弾正は屈しなかった。そこで信長は三男・信孝の養子を条件に和睦を策した。
元亀二年(
1571)正月、信長は友盛に隠居を命じた。主君友盛の不遇に義憤を覚えた弾正は謀叛を企てたため不意を襲われて自害に追い込まれた。
その後、信孝の血縁の小島兵部が高岡城主となった(『城址案内板』)。

現状は高岡城跡公園となっており、土塁、空堀等が残るものの明瞭ではない。

 

 

(城址碑)

(本丸に残る土塁)

  (城址からの眺望)

  (2013年2月9日訪問)

 

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城と古戦場 

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