鹿伏兎城

鹿伏兎城(かぶと・☆ 三重県亀山市加太字市場)は、鈴鹿川一帯を支配した戦国武将関氏六代盛政の四男の四郎盛宗(鹿伏兎氏祖)によって南北朝時代の正平(13461369)のころ築かれた。

はじめ「牛谷城」と呼ばれたが鹿伏兎氏七代定好の子である鹿伏兎定長が、時の将軍である足利義晴に白鷹を献じたことから「白鷹城」と呼ばれるようになった。
その後、天正十一年(
1583)に九代定義は、豊臣秀吉の軍勢に敗れ、鹿伏兎城を捨てこの地を去った。現在でも標高264mの山頂には、75×60mの台状地に土塁・石垣・井戸が現存し往時の面影を偲ばせている(『城址案内板』)。

神福禅寺の背後の山が城跡で、寺の前に案内坂がある。登城を試みるも、途中で道を見失い断念。石垣等の良好な遺構が残るだけに残念…。

 

 

神福禅寺の背後の山が城跡

  (2013年2月9日訪問)

 

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城と古戦場 

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