井伊直政・松平忠吉陣跡
関ケ原の戦い
井伊直政・松平忠吉陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町関が原) 慶長五年(1600)九月十五日の合戦の役に、中仙道の敵を目標とする福島、藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男・松平忠吉、後の彦根城主・井伊直政が約六千の兵で陣を構えた。 午前八時頃、軍艦・本多忠勝より開戦を促され、直政・忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の全面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘隊に攻撃し開戦の火蓋が切られた(『現地案内板』)。 ◎東首塚 |
(跡地の航空写真)
(井伊直政肖像画)
(松平忠吉・井伊直政陣跡)
(【左写真】東首塚。【右写真】東首塚標柱。)
井伊直政は、関ヶ原の戦いで、3600の兵で家康本軍に随行。諸大名を東軍につける工作を行い、合戦地においても家康の四男松平忠吉を後見する。 家康から岐阜在陣の諸将に宛てた書状に「直政をそちらに遣わすから、何事も彼の指示を仰いでほしい」と記されているほど信頼されていた。 合戦に際して、先鋒の役を獲得していた福島正則軍の脇を抜け駆け、正則の家臣・可児才蔵に、先陣の指名は井伊勢ではないと牽制されるが、「忠吉様の物見なり」と返答して敵陣に突撃したといわれる。 常に徳川氏の先陣を務めてきた直政の意地であった。小山軍議の直後に本多忠勝とともに家康に対して「秀吉の遺臣ばかりが敵を討てば、関ヶ原の勝利は徳川のものでなくなる」と言って「是非とも我らが馳せ向って勝負を決したい」と進言したともいう。 その敵陣に放つ銃声が、関ヶ原の合戦開始の合図となって激戦が繰り広げられた。決戦後に退却する島津義弘勢を猛追して島津豊久を討ち取った。しかしこの時、島津軍の決死の奮戦で、直政は肩に銃弾を受けて落馬してしまう。
直政は激烈な性格で、部下にも厳しく過怠があれば容赦せず処罰したが、自ら先陣に立って戦うことを好み、その全身は傷だらけであったという。 毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国援助をして関ヶ原の合戦の戦後処理にも尽力、また江戸幕府の基礎固めにも奔走し、石田三成の旧領近江佐和山18万石を与えられた。しかし、1602年関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因で死去した。歿42歳。墓所は彦根の清涼寺にある。 |