古志賀谷四郎館

古志賀谷四郎の館跡(こしがや・★埼玉県越谷市越ヶ谷2丁目)は、東武スカイツリー線越谷駅の東側に存在した古館。

古志賀谷太郎館と地続きで、元荒川が瓦曽根地区に至るかつての越谷市新町に所在した(越谷市郷土研究会・山崎善司氏『古志賀谷氏館跡と板碑』)。

日光街道の南側で、その南端に八幡神社と澄海寺跡があった。八幡神社には神体として文和二年(1353)の板碑が所蔵されており、近年(少なくとも昭和63年頃)まで堀が取り囲み、中世の生活の痕跡が窺えたという。堀は元荒川から水を取り込み、館跡、八幡神社と澄海寺跡を囲み、瓦曽根境に向かって落ちていた。水取り口は同市の観音横町だったという(『古志賀谷氏館跡と板碑』『新編武蔵風土記稿』『越ヶ谷瓜の蔓』)。

越谷の語源となった「古志賀谷(こしがや)」であるが、その出自は不明である。初見は『千葉大系図』で、古志賀谷二郎為基が、武蔵七党のうち野与党に属し、地頭に補任された記されており、建保-建長年間(1215-1249)頃の人物と推定されている(『古志賀谷氏館跡と板碑』)。

現在では八幡神社はあるものの、堀らしき地形は見られず、澄海寺跡もどこか分からない。周辺は越谷駅前の再開発が行われている市街地である。

 

  

 (【左写真】八幡神社。既に堀跡は見られず、隣接した澄海寺跡も不明。【右写真】館跡の新町。今でも旧街道の面影を残している。)

  (2013年1月2日訪問)

 

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