八条氏館

八条氏館(八条五郎光行館とも★埼玉県八潮市八條)

日本城郭大系』の巻末一覧に「八条郷地頭の八条五郎光衡の居館。武蔵七党の一つ野与党の一族。八条殿社に弘安七年、応安四年の板石塔婆がある。」と記されている。

付近には「五郎屋敷」「ゴンサマ」という地名が残されていたという(『埼玉県の中世城館跡』)。

八条五郎光衡は、渋江経光の子で、和田合戦の勲功により同郷地頭職を安堵されたとされ、八条を本拠として八条五郎光平を称した。八条氏は八条八幡神社の南側に構えていたとみられ、一五世紀中頃まで当地と関わりを有していたと考えられる(『武蔵七党系図』『埼玉の神社』)。

八条五郎光平の子は八条兵衛尉景光(惟茂)といい、文亀四年(1504)正月八日、葛飾東新方領主向畑城主・新方次郎太夫頼希との争いがあって新方郷に攻め込んだ。新方氏は同じく手勢を率いて向畑城に出馬して小林郷に対陣して数日間合戦があった。同月晦日、新方頼希が兵を進めて大いに血戦して、一旦は八条氏を打ち崩したものの深追いして流箭のために命を落し新方家は敗北し落城した。

新方頼希の兄の高賢上人(清浄院)は、永正十七年(1520)十月、縁者を集めて向畑城に夜討ちをかけ、八条氏家臣別府三郎左衛門が討死して城を奪還した。

永正十八年(1521)正月、八条惟茂は自身で千人を引き連れて本陣として、先陣に青柳外記、小作田隼人、柿木小膳ら850人、二陣に大相模飛騨守、西脇左近右衛ら500人とともに別府郷へ出陣。ここに新方勢が夜討ちをかけ、別府氏、青柳氏、柿木氏らが総崩れとなった。八条惟茂の叔父・大曽根上野介も大相模へ出陣していたがどうにもできず、小作田隼人の奮戦によって八条惟茂はからくも八条郷に逃げ帰ったという(『大松村栄広山由緒著聞書』(清浄院所蔵)、『武蔵七党系図』、『埼玉苗字辞典』。)

中川沿いの自然堤防上にあったとされるが、住宅地となっており、当時を偲ぶ物は残っていない。

(参考サイト『儀一の城館旅』『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

 

 (付近には全く面影は見られない。)

 

(近くの八條八幡神社)

  (2015年1月13日訪問)

 

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