中島兵庫屋敷
中島兵庫屋敷(★埼玉県八潮市八條字八条、中島) 中島氏は、この地(中島郷)に赴任するまで本名を関根と称し、ここで広大な館を構えたという。初代中島兵庫は在名中島氏を名乗り、微禄後は本名関根に復姓した。当所の古代以来居住の苗字中島一族とは別家である(『埼玉苗字辞典』)。 彼は寛永七年(1630)四月九日に没しており(「大経寺宝篋印塔」)、『新編武蔵風土記稿』には「大経寺開基は関根兵吾と云、其子孫今も村民にあり」と記されている。 八條字八条説 岩槻太田氏の家臣中島兵庫の屋敷だといい、中川の「八條の渡し」を押さえたものと推察されている。 戦国末期の創設で、宅地・山林、自然堤防から成って、かつては堀が残った(『埼玉の中世城館跡』)。 『埼玉の中世城館跡』の比定地は「八條字八条」で八条橋のたもとである。今は民家・工場となって遺構は無い。 八條字中島説 また跡地を持昌院(字中島)とされるものもあるが、ここも特定もできないほど改変されている。持昌院は川口市安行吉岡(殿山城が付近にある)の金剛寺の末寺で、御神体は古利根川から出現したと縁起にあるという(『新編武蔵風土記稿』)。 なお八潮市大字八條字中島3286-1には「中島遺跡」が確認されており、戦国・江戸時代の近世末から近代初頭の道路跡、中世~近世の陶磁器片出土地とされている。 (参考サイト『儀一の城館旅』『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』) |
( 『埼玉の中世城館跡』の比定地は「八條字八条」だが、面影はみられない。)
付近には”八条の渡し”があったという。
(一説に跡地は持昌院付近とされるが、場所の特定もできない。)
(2015年1月13日訪問)