九左衛門屋敷

九左衛門屋敷(九兵衛屋敷、関根氏館とも★埼玉県春日部市緑町6丁目)

日本城郭大系』の巻末一覧に「関根と称し、関根図書助の時、北条氏に従い、元亀四年氏政より感状を与えられる。」と記されている。

『埼玉の中世城館跡』によれば、現在は宅地、自然堤防から成り、場所を埼玉県春日部市緑町6丁目に特定している。

付近は国道が走り、住宅地となって遺構は残っていないようである。

なお、隣接する春日部市南3丁目18-17には「元新宿八幡神社」があり、関根図書助が弓を放って矢が着地した場所で、天正二年(1574)四月、関根図書が建立した神社であると伝承される(『埼玉の神社』)。 

 

-春日部関根氏について-

古代の部民制により、武蔵国春日部郷と美濃国池田郡春日部郷(岐阜県揖斐郡池田町)は密接な関係を有し、春日部関根氏が美濃国多田氏の名跡を継承して多田氏を名乗り、美濃土岐氏に仕えた。その後、帰郷して本名の関根に復姓したという(『埼玉苗字辞典』)。

関根九左衛門の先祖の某が、郡中の関根村を領し、その在名をもって関根と称した。その後、真蔵宗氏という人物が戦乱を避けて春日部に隠棲。宗氏が逝去すると子が墓所に「真蔵庵」という草庵を結んで菩提を弔い今の「真蔵院」となったという(『新編武蔵風土記稿』)。

また一説に、関根氏は武蔵国埼玉郡忍領関根村(行田市関根)を所領として数代が仕え、関根九左衛門が兵乱により春日辺の「字新宿」に引き移って病死した。その墓所に庵室を建てて「真蔵庵」と名付け、後に字砂原という場所に庵室を移して「真蔵院」と改めたともいう(『文政五年元名主九左衛門記』)。

-関根図書助-

さらに数代を経て、天正年間、後裔の関根図書という者が後北条氏に従い、玉縄城主北条氏繁の関宿城攻略に参加、戦功によって氏繁から次の感状(『新編埼玉県史』所収『関根文書』)を賜って、さらに北条家「三ツ鱗の紋」の使用が許された。歿年は未詳だという(『新編武蔵風土記稿』『文政五年元名主九左衛門記』)。

元亀四年(天正元年)酉二月四日

 今度従関宿勤仕候処於粕ヶ辺馳合敵討取事感悦候

関根図書助殿へ
    氏繁花押

この「粕ヶ辺」は「粕壁(春日部)」であり、春日部市内において敵と渡り合い、これを討ち取ったことを賞して官途を約束する内容である(『春日部市史 通史編』)。

関根図書は、一説には図書之助宗重と名乗り、天文十六年(1588)二月病死したとされる(『関根氏系図』)。

当時の春日部市域の領主支配状況は史料が残っておらず分からないが、戦乱に巻き込まれた地域であり、関根氏は岩付衆の一員であったと推定されている(『春日部市史 通史編』)。

(参考サイト『儀一の城館旅』『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

 

 (埼玉県春日部市緑町6丁目。関根図書に関する屋敷跡は消滅したようである。

  (2015年1月20日訪問)

 

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