井上氏館

井上氏館(井上氏屋敷とも★埼玉県春日部市一ノ割1丁目)

日本城郭大系』の巻末一覧に「井上将監は岩槻城太田氏房に仕え、永五十貫文を与えられる。屋敷の周囲は堀がめぐり、子孫が現存する。」と記されている。

『埼玉の中世城館跡』によれば、戦国末期の創建で、現在は宅地、自然堤防から成り、場所を埼玉県春日部市一ツ割木田430に特定している。

『新編武蔵風土記稿』には「先祖を将監といい、岩槻城主太田十郎氏房に仕え、当所において永五十貫文を賜い、氏房没落の後跡を民間に隠した。男子二人あり、長男を三郎左衛門といい当所に居住、次男某十四歳にして剃髪し、平方村林西寺埼玉県越谷市平方)に住職して然譽呑龍(呑竜上人)と号した。」と記されている。

『平方村林西寺文書』よれば、井上将監は永五十貫文で一ノ割村を知行し、太田氏滅亡後は一ノ割村の百姓と成った。次男の呑竜上人は天文十一年(1542)当地で誕生し、元和九年(1623)大光院(群馬県太田市)で八十余歳で遷化したという。

現在は圓福寺(背後の香取神社を含むか)になっている。鎌倉時代末期の開基と推測され、文禄元年(1592)に伽藍を建立した光譽祖岌上人をもって開山の祖とする。なお呑竜上人は弘治二年(1556)生まれという(『圓福寺HP』)。

『大系』の掘は確認できず、遺構らしきものは見当たらない。

(参考サイト『儀一の城館旅』『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

(国土地理院1975年航空写真)

 

 (圓福寺。格式のある名刹である。遺構は消滅したようである。

  (2015年1月20日訪問)

 

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system