次郎兵衛屋敷

次郎兵衛屋敷(多田氏館とも★埼玉県春日部市粕壁東一丁目)

日本城郭大系』の巻末一覧に「多田新十郎は初め武田氏に仕え、のち岩槻城太田資正に従い、永禄十二年の北条・武田氏の合戦で北条氏政より感状をもらう。その後、多田を関根と改め、代々名主を勤めた。」と記されている。『新編武蔵風土記稿』に同様の記述が見られる。

『埼玉の中世城館跡』によれば、戦国時代の創建された屋敷で、現在は宅地、自然堤防から成り、場所を埼玉県春日部市粕壁6115に特定している。

『新編武蔵風土記稿』によれば、いずれかの合戦で、太田氏に抜群の功があり、上杉謙信から感状があって、名誉として「関東根元」の四文字から「関根」との名乗りを戦功の者数人に与えられたという。
多田新十郎もその一人で、後北条氏時代には関根図書助とともに北条氏繁の岩付衆に従軍していたと推測されている(『春日部市史』)。
しかし岩槻落城後は、当所へ引き籠って村民になったと伝わる(『新編武蔵風土記稿』)。

日本城郭大系』の記す北条氏政の感状は、薩埵山の戦いで針宇文六という人物を討った高名を称える内容で、多田時計店主が保持しており、春日部市郷土資料館に複製が展示されている。

西野博道『続、埼玉の城址めぐり』によれば、跡地はその多田時計店付近であるが、遺構は残されていないようである。

--北条氏政の感状--

昨十三夜、於薩埵山、敵夜懸之刻、敵壱人針宇文六与合討、高名感悦候、弥可竭粉骨者也、仍如件、

永禄十二年 三月十四日

 (北条氏政花押)

多田新十郎とのへ

(参考サイト『儀一の城館旅』『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

  

 (跡地の多田時計店。背後の雑木林・碇神社あたりも敷地だったらしい。

  (2015年1月20日訪問)

 

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