別府氏館

別府氏館(★埼玉県越谷市東町)

『埼玉の中世城館跡』によれば、年代未詳の館だとされ、場所は特定されていない。

別府氏は武蔵七党の1つ野与党出身で八潮八条氏に従っていたものと思われる。
嘉吉元年(
1441)正月、足利義教将軍の下知により、結城氏の残党である大川戸氏を渋江・金重・柏崎・白岡・野島・八条・大相模・別府・大曽根・一色の人々が大軍をもって襲ったという(『大松村栄広山由緒著聞書』)。

文亀四年(1504)正月の向畑合戦では、八条氏が新方(にいかた)氏の地に侵攻し、結果的に勝利して、別府三郎左衛門が向畑城の城代となった。しかし永正十七年(1520)十月、新方氏の夜討ちを受け、別府三郎が討死して落城した。さらに永正十八年(1521)正月、八条惟茂は自身で千人を引き連れて本陣として、先陣に青柳外記、小作田隼人、柿木小膳ら850人、二陣に大相模飛騨守、西脇左近右衛ら500人とともに別府郷へ出陣。ここに新方勢が夜討ちをかけ、別府氏、青柳氏、柿木氏らが総崩れとなったという(『大松村栄広山由緒著聞書』)。

越谷市大相模(現東町)には別府太郎、別府次郎の館跡があったと伝えられ、別府三郎と関係があるのかは不明だが、最終的に別府氏は館を失ったものと推察されている(高崎力『越谷における中世の城館跡』昭和63年)。

別府村(別符村・現東町)は荘園の追加開墾地である別符田からきた地名だといわれている(『金剛寺説明板』)。

跡地は特定されていない。ほかの土豪と同じように中川の自然堤防付近に住んでいたと思われるが、遺構は無い。

(参考サイト『儀一の城館旅』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

(旧別府村。中川の自然堤防で、この付近に館を構えていたものであろうか。)

   

 (付近にある金剛寺。裏手には立派な墓石が並ぶ。

  (2015年1月21日訪問)

 

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