石田三成陣跡 笹尾山
関ケ原の戦い

石田三成陣跡〔笹尾山〕(岐阜県不破郡関ヶ原町関が原)

笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していった(『現地案内板』)。

三成が家禄の半分も与えてまでも仕官させたといわれる島左近は、前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいう(『現地案内板』)。
通説では、
黒田勢の鉄砲頭・長菅政が高所に登り五十挺の鉄砲で間断なく射撃してきたため、さすがの島も利を失い、乱戦中の命を落としたと伝わっている(『人物書 石田三成』)

蒲生郷舎は、左近とともに、三成隊の先陣として終始右翼から奮戦激闘を続けた。そのため、黒田・細川・加藤の隊は容易に笹尾山を攻めることができなかった。
しかし、西軍劣勢となるや、織田有楽の勧告に腹を立てた郷舎は、敵中に躍り込んだ。その後、有楽の家臣に討たれ戦死したとも伝えられている(『現地案内板』)。

(跡地の航空写真)

石田三成陣跡碑(笹尾山)

 

(【左写真】島左近陣跡(本隊左翼に配置・杭が復元されている) 【右写真】蒲生郷舎陣跡(本隊右翼に配置) )

  

(【左写真】陣跡遠景 【右写真】笹尾山から主戦場を望む )

開戦地から笹尾山を望む(中腹の旗が三成陣跡)

 

◎最後決戦地

「西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。」(『現地案内板』)

(最後決戦地跡碑)

 

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