匝瑳氏館

匝瑳氏館(そうさ★埼玉県三郷市戸ヶ崎)

『埼玉の中世城館跡』によれば、戦国期創建の屋敷で、宅地・山林・畑、自然堤防から成り、所在地を戸ケ崎2177に特定している。

日本城郭大系』の巻末一覧に「匝瑳蔵人佐は戸ヶ崎のうち四十七貫文を領す。浅間社の天正十年(1582)の鰐口に匝瑳大隅信利とある。西福寺に匝瑳氏の墓地がある。」と記されている。『新編武蔵風土記稿』に同じ記述がある。

匝瑳氏は後北条氏の給人の中でもほぼ中間に位置する存在で、いつから北条氏に従ったのかは不明だが、その下総侵攻にともなって服属したと考えられ、匝瑳氏も軍役を負担したが、『着到定書』という北条氏の軍役書から、匝瑳氏は自身を含めて8、9名の動員だったと考えられている(『三郷市史』)。

『小田原衆所領役帳』(永禄二年1559)には、匝瑳蔵人佐の名が見え、匝瑳氏の在地支配が貫徹していたものとされる。しかし、北条氏滅亡後の匝瑳氏の動向は分からないという。ただ、西福寺の墓石には寛文三年(1663)と刻まれており、江戸時代には帰農して当地に土着したと推測される。なお『日本城郭大系』のいう天正十年(1582)の鰐口は現在は戸ヶ崎の香取神社に保存されている(『三郷市史』)。

匝瑳氏は千葉県の名族だったと考えられるが、『新編武蔵風土記稿』の時代には既に「子孫今村内には絶たり」とされ、現存もしていない(『埼玉苗字辞典』)。天正末期から慶長年間には当村は加藤氏が名主となっていることから、後北条氏とともに没落したのであろう。

跡地は大きな林を擁した民家となっている。民有地のため遺構が残っているのかは分からない。

(参考サイト『犬と武士』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

 

 (【左写真】匝瑳氏館。民家となっている。【右写真】豊かな樹林が観られる。)

 

 (【左写真】『新編武蔵風土記稿』所収の匝瑳大隅信利と書かれた天正十年(1582)鰐口【右写真】西福寺の匝瑳氏墓石。『三郷市史』より。

  (2015年2月2日訪問)

 

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