谷古宇五郎館

谷古宇五郎館(★埼玉県草加市谷古宇)

『埼玉の中世城館跡』によれば、鎌倉時代の館で、場所は特定されていない。

『埼玉県市町村誌』では、「矢古宇五郎館」の名称で、草加市の城館跡として掲載され、所在地を谷古宇とし、出典に『吾妻鏡』『埼玉県史3』を挙げている。

藤原秀郷の子孫が矢古宇を名乗って市域に進出したというが、その仔細は分かっていない。市内で出土した板碑の北朝年号から足利氏に味方した関東武士の流れであったと推察される(横山正明『草加の歴史随歩』)。

承久三年(1221)武蔵国矢古宇郷50余町が鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されており(『吾妻鏡』)、鎌倉から室町時代まで八幡宮の庇護を受けた村であったという一方で、矢古宇郷の村民は室町時代には緊密なまとまりを持ち、八幡宮に対して様々な要求を行い、一筋縄では支配できないほどの知恵と行動力を持っていたという(『草加市史』)。

明治二二年までは谷古宇村が存在したが、今は綾瀬川に架かる橋などに名をとどめているにすぎない。

 

 

 (【左写真】草加市の”谷古宇橋”とその交差点。【右写真】谷古宇橋の南側、明神町の谷古宇稲荷大明神。谷古宇村の鎮守だった。

  (2015年2月17日訪問)

 

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