島津義弘陣跡
関ケ原の戦い

島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町関が原)

戦国の雄・島津軍団千人を率いた島津義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣を構えた。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」に勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たとされる。

「背進」を最強の武器に変えた決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」である(『現地案内板』)。

名高い「敵中突破」の起点となった場所。ここから伊勢街道を南下した場所(烏頭坂)に島津豊久奮戦の碑がある。

(跡地の航空写真)

島津義弘(維新)陣跡碑

  

◎島津豊久奮戦の地

「関ヶ原合戦の午後3時頃、西軍は殆どの軍が総崩れとなった。西軍の島津隊は最後まで戦ったが、果敢にも敵中突破を図り、主君・義弘公を守りながら、東軍の徳川家康の本陣を横切り、血路を伊勢街道に求めて南進した。

島津義弘の甥・豊久(日向国佐土原城主)は、ここ烏頭坂附近で殿戦を展開し、松平忠吉・井伊直政・本多忠勝らの追撃軍を頑強に食い止めたので、その間に義弘公は遠く戦陣を離脱し、鹿児島に帰り着くことが出来た。

豊久の生死は不明であるが、一説には多良まで落ち延びたが、手傷が重いため、自害してしまったともいう」(『現地案内板』)。

島津豊久奮戦の碑

島津豊久奮戦の地(烏頭坂)

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