高野城

高野城(高野の浅間が城とも★埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、南北朝時代の館で、場所を下高野浅間下332と特定し、現況は宅地・山林、自然堤防だとする。
『埼玉県市町村誌』に同様の記述がある。

『埼玉の中世城館跡』(第1版・昭和43年)によれば、一里塚があった場所が中心だとし、遠望写真を掲載する。

『永福寺縁起』に「藤堂長福が高野浅間台に城を構え、古河公方と関東管領上杉氏の合戦では幸手一色氏の子息が城を固め、岩付城主の渋江氏がここを放火した」などと記されているが、後年の史料で真偽は不明だという(『杉戸町史』)。

また、同縁起には「永福寺51世日尊上人の父・藤原長福は、貞治元年(1362)高野城を拠点に近郷を領していたが、酒食遊芸に溺れ非道に走った。日尊上人はこれを憂いて仏門に入って比叡山に登り、その後当地に戻った。長福は落馬がもとで高熱により死亡したが、その密葬の日に暴風雨が襲来して高野川は氾濫して、長福の墓所は流出して池となったため、人々は悪行の報いであるといい“因幡池”と呼ぶようになった。日尊上人が父の罪業消滅のために法要したのが「因幡池のどじょう施餓鬼」である。」と記されている(幸手市史編さん室『幸手一色氏』)。

『新編武蔵風土記稿』によれば下高野の地には一色氏とゆかりのある寺院が多数存し、新井氏所蔵の『新井氏系図』には一色直朝が隠居後に下高野に移住したと記されている。

『杉戸町史』は、伝承地を「字浅間前」として、荏柄天神社(「一色氏別宅跡」ママ)を中心とする南北に長い地域のどこかに存在した可能性を指摘するが、遺構は確認できないという。

『幸手一色氏』も、荏柄天神社、永福寺一帯を推定地としているが遺構は確認できないという。なお荏柄天神社は幸手一色氏の屋敷内に祀られていたものを移築させたという説等があるが定かではない(『高野村誌』)。

 

 (『杉戸町史』掲載の地図。左上に「伝承地」、中央に荏柄天神社(「一色氏別宅跡」ママ)がある。

 

 (【左写真】『埼玉の中世城館跡』(第1版・昭和43年)掲載の伝承地遠望。【右写真】県道65号沿いにある一里塚。『埼玉の中世城館跡』は城の中心という。

 

 (【左写真】『埼玉の中世城館跡』記載の城跡地。林があるが遺構は見られない。【右写真】水路に面し堤防状にはなっている。

 (幸手市史編さん室『幸手一色氏』掲載の地図。赤丸を推定地としている。

 

 (【左写真】高野城推定地、荏柄天神社「一色氏別宅跡」。一色氏の城郭には必ず天満宮が祀ってあるという。【右写真】天満宮の巨木の説明板。

 

 (【左写真】隣接する全長寺。趣のある仏閣である。【右写真】幸手一色氏の菩提寺だという。

  (2015年1月20日、3月25日訪問)

 

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