鈴木雅楽助館

鈴木雅楽助館(★埼玉県南埼玉郡宮代町東)

埼玉県宮代町の百間郷の一部は戦国時代には鈴木雅楽助(うたのすけ)という人物によって支配されていた。

鈴木氏は比企郡川島町三保谷の鈴木氏の分家とされる(『鴻巣市鈴木家系図』)。初代鈴木雅楽助は重次といい、一説には管領山内上杉氏の家臣だったが(『鈴木氏由緒書』)、明応年間(1492-1500)に古河公方足利成氏に仕えていたともされる(『鈴木家墓誌』)。
重次は文亀二年(
1502)に死去しているが、時間経過によって古河公方から岩槻城太田氏(管領上杉氏)に主を変えたのではないかといわれる。その後、三代目までに後北条氏に従うようになっているが(『宮代町史』)、北条氏への軍役は槍持ち一人と騎馬武者一人だったという(『鈴木家墓誌』)。また四代目になると雅楽助の官途を変え、鈴木日向守重門と名乗っており、少なくとも豊臣秀吉侵攻の天正十八年まで各地を転戦していたという(『鈴木氏由緒書』)。
北条氏房時代には小奉行(石倉)に命じられたり、岩槻城へ兵糧を納めたりしていたが岩槻開城後は帰農して、江戸初期から中期にかけて百間東村の名主を勤めた(『宮代町の中世遺物』)。

館跡地は住宅となって遺構は見られない。なお隣接する「中寺遺跡」からは中世の遺物が発掘(平成十年)されており、鈴木雅楽助館との関係が深いものとされる(『宮代町の中世遺物』)が、今は埋め戻され個人宅となっている。

(参考サイト『儀一の城館旅』)

 

 

鈴木雅楽助館跡地)

 (宮代町教育委員会『宮代町の中世遺物』掲載の「中寺遺跡」の地図と発掘状況。鈴木雅楽助館に関係するものだという。

  (2015年3月25日訪問)

 

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