白岡氏館
白岡氏館(★埼玉県白岡市白岡) 『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、平安末期の館で、場所を「白岡町小久喜」として特定せず、遺構に関する記述はない。 『埼玉の中世城館跡』(第1版・昭和43年)は、「白岡氏居館地」として、平安時代の館で、「白岡町白岡」を所在地とし、出典に『埼玉県史2』『新編武蔵風土記稿』を挙げている。 白岡氏は野与党の出自で、埼玉郡鬼窪郷白岡村より起った。もともと「南鬼窪」を名乗っていたが、白岡禅師澄意より「白岡」を称し、その後「鬼窪」をその苗字としたという(『新編武蔵風土記稿』『武蔵七党系図』)。 また、『下高野村永福寺伝』には「寿永二年(1183)、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と記されているという(『埼玉苗字辞典』)。 白岡八幡神社は、嘉承二年(849)慈覚大師円仁の草創とされ、八幡太郎義家が奥州征伐のときに戦勝祈願に参拝した。建久六年 (1195)源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという(『現地説明板』)。 跡地は白岡八幡神社の南東付近だと推察されているが、場所を特定することは困難である。 (参考サイト『城跡ほっつき歩き』『帝國博物学協会城郭研究部』) |
(【左写真】白岡八幡神社 【右写真】現地説明板 )
(康平五年(1062)八幡太郎義家公が奥州征伐の途中、戦勝祈願の参拝したとされ(『新編武蔵風土記稿』)、その際に馬をつないだとの伝説のある枯れ木。)
(2015年3月25日訪問)