幸手城

幸手城(一色館跡、一色氏館★埼玉県幸手市中)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、室町時代の城で、場所を「中1-16-23」とし、現況は宅地・畑、自然堤防という。

一色氏は足利氏(栃木県足利市)の支族で、足利泰氏の子で弘長三年(1263)生まれの公深が一色氏の祖とされる。一色公深は母方の祖父桜井氏によって養育され、その三河国幡豆郡吉良荘の地頭職を譲り受け、吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)に居住して一色氏と名乗った(『寛政重修諸家譜』)
しかし、この一色氏が幸手市との関わりをもった経緯は史料に全く出てこない(『幸手市史』)。新井氏の所伝では足利泰氏の頃から幸手市と関係があったというが詳細は不明である(『新井家系図』)。

幸手城は応永六年(1399)足利満兼に命じられて一色直氏が父の遺領の幸手(薩智)村に構えたと伝わる(『新井家系図』)。

一色氏はその後も古河公方に従っていたが、その足利義氏没後(天正十年・1582)の詳細は不明で、当主は天神島城に隠居し、幸手一色氏の政治的地位は完全に失墜したと考えられる(『幸手市史』)。

『新編武蔵風土記稿』は「城蹟」として「平地なり、いつの頃よりか畑となり、堀土居等の蹟も失ひ。」と伝える。

『日光道中分間延絵図』(文化三年・1806)には「城跡」として宿場近くに小高い丘が描かれているが、今は幸手駅となって何の面影も窺えない。

『幸手一色氏』(幸手市教育委員会)によれば、かつては利根川の旧河川が乱流していた地と考えられる自然堤防上に位置し、江戸時代後期には遺構はほとんど失われていた。また天神神社や一色稲荷神社は一色氏の勧請で、祥安寺は馬場跡だといわれている。

(参考サイト『儀一の城館旅』『余湖くんのホームページ』『城郭図鑑』)

 

 

『幸手一色氏』(幸手市教育委員会)掲載の地図)

(『日光道中分間延絵図』(文化三年・1806)の城山)

 

(【左写真】幸手駅。城跡は山ごと消失している。【右写真】天神神社。一色氏の城郭には必ず天神宮があるという。)

 

(【左写真】稲荷神社。【右写真】駅の向こう側の祥安寺は馬場跡だといわれている。やや小高くなっている。)

  (2015年3月25日訪問)

 

戻る

城と古戦場 

inserted by FC2 system