巻島氏屋敷

巻島氏屋敷(★埼玉県幸手市北3丁目・権現堂)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、年代未詳の屋敷で、場所を「権現堂551」とし、現況は宅地・畑、自然堤防という。

巻島氏は、もと桃井氏を名乗って山城国槙嶋村(京都府宇治市)に住んでいたが、その後、北葛飾郡鷲宮町を領して幸手城主・一色氏に従い、五郎兵衛という人物が権現堂河岸(幸手市北3丁目)に住した。その孫の五郎兵衛は豊臣秀吉の感状により「巻島」と改めたという。北1丁目の聖福寺に巻島家墓所がある(『槙嶋氏系図』『幸手一色氏』)。

『幸手市史』によれば、巻嶋氏は一色氏に代々仕え、天正十七年(1589)、一色直義から巻嶋主水助(もんどのすけ)に宛てて、間釜(栗橋町間鎌)に10貫文の知行地を与えることを約束した某印判状が発せられ、子孫の巻島家(北3丁目)に残されている。

付近は中川に面した自然堤防になっている地である。屋敷地の特定はできず、遺構も見られないようである。

(参考サイト『儀一の城館旅』『帝國博物学協会城郭研究部』)

 

  

(【左写真】北3丁目の地。長閑な町並みだった。【右写真】付近の起伏は激しく、中川の自然堤防が頂点を成している。)

 

中川の自然堤防にある「水神社」。水害に対する神様であろうか?)

渡辺平和先生殉職の碑

幸手市北3-6

大正八年(1919)七月十七日に、幸手農業高等学校(現県立杉戸農業学校)の渡辺平和先生が生徒を引率して、権現堂川(現在の中川)に「えびら」(かいこの飼育に使う竹製の平らな台)を洗いに来ていた時、一人の生徒が溺れてしまい、それを助けようとして、ともに不帰の客となりました。

この碑は、教師としての責任感をたたえて大正十一年(1922)に建立されたものです。なお渡辺平和先生の出身地、長野県上田市の上田城跡公園内にも、殉職の碑が建立されています。幸手市教育委員会

  (2015年3月25日訪問)

 

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