栗橋城

栗橋城(くりはし★★★茨城県猿島郡五霞町元栗橋)

室町戦国古河公方家重臣・野田氏の居城になった。野田氏は鎌倉公方奉公衆かつ古河城の城主だったが、享徳四年(1455)、第五代鎌倉公方・足利成氏が古河城に移座した後、野田氏は栗橋城に移った。しかし永禄年間(1558-1570野田景範の時に後北条氏により城は接収され、北条氏照の北関東攻略の拠点となり、野田氏は後北条氏の傘下に入ったものと推察される(『図説 茨城の城郭』)。

天正十八年 (1590)豊臣秀吉小田原征伐後に徳川家康の家臣・小笠原秀政古河藩に入部した際には、古河城修復の間、秀政は栗橋城を居城としたが、修復が終わり古河城に移った後は廃城となったという(『wikipedia』)。

城跡は西に権現堂川を擁した河川城であり、その河原面の遺構は多く失われているが、東端の堀・土塁は比較的良く残されている。特に法宣寺裏手の「七曲り」と呼ばれる屈折した空堀は複雑な縄張りの一旦を垣間見せる貴重な遺構である。

(参考サイト『余湖くんのホームページ』『城郭図鑑』『埋もれた古城』)

 

  

(【左写真】wikipedia』掲載の概念図 【右写真】城跡の入口に設置されている説明板。)

 

(【左写真】説明板を進むと、ほどなく空堀が見られる。往時の外堀だろうか。【右写真】外堀を下りる。概念図の2の右側の堀。)

 

(【左写真】法宣寺の本堂が見える。堀は屈折している。【右写真】屈折部分から撮ったもの。良く残っている。)

 

(【左写真】七曲りの空堀。この辺りは城跡で一番壮観な遺構だろう。【右写真】堀はさらに屈折を連続されている。)

 

(【左写真】概念図の1の郭。七曲りに接しており、重要な外郭的なものだったのだろうか?【右写真】法宣寺本堂。)

  (2015年3月25日訪問)

 

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