宇喜多秀家陣跡
関ケ原の戦い

宇喜多秀家陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町関が原)

西軍副大将の宇喜多秀家は、一万七千の兵を配して中山道をおさえた。

午前8時頃、東軍福島正則勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛・明石全登の隊との激突となった。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれている。
秀家は敗走中に池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、83才まで生き延びている(『現地案内板』)。

通説では、井伊直政が宇喜多軍に抜け駆けをし、それを知った福島正則は急ぎ鉄砲隊800をもって一斉に宇喜多軍に発砲し、決戦が開始したという。周囲は未だ霧に包まれた午前8時の事であった。
宇喜多軍は猛将・明石全登の奮戦で福島軍を押し込み、これを見て怒った正則は自ら前線に駆って出て、戦況は一進一退した。
しかし、小早川秀秋の裏切りで宇喜多軍は崩れ、それを知った秀家は小早川隊に突撃しようとしたが、明石全登の諫めによって戦場を逃れたという(笠谷和比古『関ヶ原合戦』)。

(跡地の航空写真)

宇喜多秀家肖像画)

宇喜多秀家陣跡碑

 

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