花崎城

花崎城(★★埼玉県加須市花崎)

『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、戦国時代の城で、「花崎1-9」を所在地とし、現況は公園・自然堤防、遺構は堀・井戸・土壙とする。

『加須市史』は、「城跡は花崎駅の西方に位置し、土塁・水堀の一部を残し、雑木林に覆われている。平城で、築城年代は不明である。『鷲宮社領郷主莿萱氏系図』によれば、永禄四年(1561)、越後の長尾景虎が関東に出陣し、関東管領に封じられた帰途、木戸宮内少輔の一隊が、後北条氏方の鷲宮粟原城を焼落させ、ついで属城の花崎城へ押し寄せて落城させ、以後、衰えた」(抜粋)と記している。

比定天正二年(1574)の北条氏繁書状(白川義親宛)に五月四日、「然而羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落」とあって、後北条氏の岩槻城に対して上杉謙信が花崎城を向城として取り立てたが逃走したと読むことができる(『戦国遺文 後北条氏編』1702「北条氏繁書状」(並木淳氏所蔵文書))。

『新編武蔵風土記稿』は、「古城蹟 小高き地にて、東北の方泥深き沼をもって要害となしたる様也、されど城蹟とのみ伝え、何人の住せしことを知らず」と記している。

『埼玉苗字辞典』によれば、城主は茂野氏で、法泉寺過去帳に「永禄元年開基茂野与五右衛門」とあり、墓碑に「開基茂野与五右衛門、法泉寺殿明覚宗哲居士、元和九年正月二十六日亡」とあるが、一族は現存していないという。

戦国時代の館跡で、障子堀、畝堀、馬出しなどが発掘され、また、擂鉢、ほうろく、常滑産や美濃産の陶器、板碑、弾丸などとあわせて、縄文早期の土器や平安時代の住居址も出土した(加須市HP)。

城跡は線路で分断されたらしい。北側の城跡公園には面影は無いが、南側の城山公園には、郭、堀が残存している。一部は複雑な水堀となっており、昔の名残りをうかがわせている。遺構の少ない地域の中で非常に貴重な史跡である。

 

  

(【左写真】明治時代の迅速地図。それらしい記述は無い。【右写真】1970年代の航空地図。)

  

(【左写真】公園に立つ史跡標識。【右写真】早速見事な堀跡が見られる。)

  

(【左写真】堀は郭を画していたものだろうか。とてもよく残っている。【右写真】左の写真の奥から振り返ったところ。)

  

(【左写真】平場が見られる。小高くなっており、重要な郭だったのだろう。【右写真】周囲には堀が残っている。立派な遺構である。)

  

(【左写真】深さは分からないが、水をたたえており、往時の雰囲気を味わえる。【右写真】公園の郭を望んだもの。十分に城郭の雰囲気を有している。)

  (2015年4月27日訪問)

 

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